岐阜県岐阜市に存在する古いトンネルには、戦時中の悲しいエピソードがあります。
古くて狭い片側1車線のトンネルは防空壕として利用され、そのなかで命を落とした人が少なからず存在するそうです。
そのトンネルの名前は『鶯谷トンネル』
数多くの心霊現象が起きるトンネルとして、オカルトマニアの間ではとても有名になっています。
本記事では、『鶯谷トンネル』の過去と心霊現象を紹介していきます。
岐阜県『鶯谷トンネル』
『鶯谷トンネル』とは
『鶯谷トンネル(うぐいすだにとんねる)』は、岐阜県岐阜市に存在するトンネルです。
鶯谷トンネルは、金華山南西部の瑞龍寺山を貫通するトンネルで名前の由来は、地名の『鶯谷』となっています。
鶯谷トンネルは、上り・下りで別のトンネルになっていて、上りが『新鶯谷トンネル』で下りが『鶯谷トンネル』です。
心霊スポットとして有名なのは、下りの鶯谷トンネルの方で、トンネル入り口には祠らしきものが建てられています。
元々は、岐阜県の庁舎や岐阜市役所などの官公庁街と岐阜市の東部を短絡する目的でトンネル開削事業として立案されました。
しかし、諸々の事情から太平洋戦争中の1945年に岐阜県支援のもと、防空疎開道路として岐阜市土木部が着工することになります。
戦局の苛烈化に伴い、市は突貫工事で掘削を進めるために市民の協力を仰ぎ、工事には市民の勤労奉仕を予定していたようです。
工事中の鶯谷トンネルは、戦時中は空襲から市民を守るために、防空壕として利用されていました。
終戦に伴い当初の目的を失った鶯谷トンネルですが、交通上重要であると判断して工事を続行!
資材難や難工事に四苦八苦しながらも、第二次世界大戦後の1947年8月1日に開通することになりました。
開通した当時では、岐阜県では一番長いトンネルでした。
『鶯谷トンネル』の場所
〒500-8121 岐阜県岐阜市上加納山4712-51
『鶯谷トンネル』で過去に起きた事件・事故
鶯谷トンネルは、戦時中の時点で工事の途中だったため防空壕として利用されていました。
そのため、トンネルの入り口付近では、空襲によって命を落とした人がいると言われています。
また、防空壕内に避難していた人でも、入り口近くに居た人は、爆風に巻き込まれて亡くなってしまった人がいるそうです。
トンネル入り口には祠のようなものが建てられていて、空襲によって命を落とした人々を祀っているとも言われています。
鶯谷トンネルの上にある金華山では、自殺者が発生しているという噂もあります。
『鶯谷トンネル』で起こる心霊現象
鶯谷トンネルでは、防空壕で亡くなった人の無念を象徴するように、数多くの心霊現象のウワサが囁かれています。
心霊スポットではありがちな話から、鶯谷トンネル特有のものまで多岐に渡る心霊話を紹介していきます。
トンネルの壁や天井に顔や人影が浮かび上がる
鶯谷トンネルの心霊現象で、特徴的な要素を持っているのがこの噂です。
人によって見え方は違うようですが、『トンネルの壁や天井に苦しむ男性の顔が浮かびあがる』『白い人影が天井から這い降りてくる』『壁の中から無数の手が這い出てくる』といった情報があります。
また、男女の性別の区別がつかない顔が浮かび上がってきたり、表情も無表情のものから苦しむ顔まで多数のパターンがあるようです。
無念のまま亡くなり、成仏できていない人たちの魂がトンネル内にとどまり続けていて、そこを通過する人に何かを訴えかけているのでしょうか・・・。
ルームミラーに映り込む女性
鶯谷トンネルを車で通過している時に、何だか視線を感じてふとルームミラーを見てみると、後部座席に座る女性の顔が映り込む・・・。
驚いて、実際に後部座席を確認すると当然そこには誰もいない!
こういったウワサは、色々な心霊スポットで見たり聞いたりする心霊現象ですが、鶯谷トンネルでミラーに映る女性は、いつも怒った顔をしているそうです。
なかには、憎しみのこもった、凄まじく鋭い目つきで睨まれた人もいると言います。
いつも怒った表情をしていることや、憎しみのこもった視線で睨んでくることから、強い感情・怨念を感じさせます。
自分達は不遇な人生だったのに、お気楽に生きている今の時代の人間を見ると腹が立つのでしょうか・・・。
白い服の女性の地縛霊が出現する
鶯谷トンネルには、白い服を着た女性の幽霊が住み着いているという噂があるようです。
この白い服の女性は、地縛霊になってしまっていて、トンネルの近くにいる他の幽霊を取り込んで力を強めていると言われています。
地縛霊は、自分が死んでいることに気が付いていない事が多く、成仏することが出来ないそうです。
長い期間同じ場所に居続けることで、力が強くなり通りかかる人に憑りついたり、不幸をもたらすケースもあるため安易に近づくのは危険とされています。
あまりに長く同じ場所に存在する地縛霊は、悪霊化してしまうとか!
うめき声や苦しむ声が聞こえてくる
鶯谷トンネルに肝試しに行った人の情報によると、トンネル内に踏み入って暫くすると壁や天井から「熱い・・・苦しい・・・」と言う声や「ゔ、ゔ、ゔ」などの声にならないうめき声が聞こえてきたそうです。
また、トンネル内を吹き抜ける風の音に混じって、女性の鳴き声や笑い声のようなものも聞こえたという噂もあるようです。
『トンネルの壁や天井に顔や人影が浮かび上がる』に近い現象かもしれませんが、戦時中に爆撃によって亡くなった人たちの無念や苦しみが、声になって聞こえてくるのかもしれません。
戦争の悲惨さを象徴するような、心霊現象と言えるのではないでしょうか・・・。
番外:口裂け女の伝承
鶯谷トンネルは、『口裂け女』の噂が発祥した地という噂もあります。
これは、防空壕として利用されていた時に、爆風によってトンネルの中に避難していた人たちが亡くなったという話なのですが、その遺体の多くが『口がパックリと裂けていた』と言われていることから広まった噂のようです。
ちなみに口裂け女は、1979年頃から日本中に広まった都市伝説で、社会問題にまで発展したウワサ話です。
地域や時期によって様々なパターンがあることが特徴ですが、『通行人に声をかけて「ワタシ・キレイ?」と質問して来て、「綺麗」と答えるとマスクを外して「コレデモ?」と耳元まで裂けた口を見せて来る』ところは概ね共通しているようです。
この都市伝説が流行する前に、岐阜県には口裂け女伝承が残されており、古くは妖怪などの姿で民間伝承の中に登場しているそうです。
ウワサされる心霊現象
- トンネルの壁や天井に顔や人影が浮かび上がる。
- ルームミラーに映り込む女性。
- 白い服の女性の地縛霊が出現する。
- うめき声や苦しむ声が聞こえてくる。
戦時中に防空壕として利用された過去が、様々な心霊現象のもとになっているのでしょうか・・・。
『鶯谷トンネル』心霊スポット化の理由を考察
鶯谷トンネルが心霊スポットとして知られるようになった理由は、戦時中に防空壕として利用されていた経緯が最も大きいと言えるでしょう。
防空壕として利用されていた話や、空襲によって命を落とした人の話は、地元民なら知っていることであり、例え知らなくても学校の平和学習で教えられることは間違いありません。
そういった教育を受けた子どもたちが、恐怖心や好奇心を持ってトンネル内を散策すると、聞こえる筈のない声が聞こえたり壁や天井のシミが人の顔に見えて来る・・・。
そして、そういった体験を子どもが語り継ぎ、心霊現象のウワサは広がっていくことは珍しいことではありません。
実際に筆者の地元にもそのような流れで、心霊スポットになっている場所が存在します。
更に言うなら、古いトンネルのなかは不気味な雰囲気に満ちていることに加えて、薄暗く視界が悪い上、様々な音が反響しています。
トンネルが過去に防空壕として使用され、その際に死者が出ていると知っている人が、不気味さを感じながらトンネル内に踏み入るとどうなるでしょう。
子どもでなくても、実際には起きていない出来事を知覚し、幻覚を見てもおかしくはありません。
そうした人が語るウワサや過去の話がもとになり、鶯谷トンネルを心霊スポットにしていったのではないでしょうか。
ただし、本当に心霊現象が起きている可能性は完全には排除できませんけど・・・。
『鶯谷トンネル』訪問時の注意点
鶯谷トンネルは、過去に不幸な出来事が起きた場所です。
命を落された方の眠りを妨げたり、侮辱するような行為は避けるべきでしょう。
出来れば、遊び半分や興味本位で訪問して肝試しに興じることはやめた方が良いと思われます。
また、心霊的な話を抜きにしても鶯谷トンネルで肝試しをする事には危険があります。
鶯谷トンネルは、現在も地元民に日常的に利用されているトンネルです。
肝試しに出掛けて、トンネル内で幽霊を探すために車を停車すると、衝突事故を誘発する可能性があります。
実際に過去には、トンネル内に車を止めて消灯していたら、後続車に衝突された事故が起きているそうです。
どうしても肝試しをする際は、どこかに車を駐車して徒歩でトンネル内を散策しましょう。
鶯谷トンネルは、古いトンネルで内部には十分な灯りがありません。
女性だけが少人数で肝試しなどをしていると、霊的なリスクよりも危険なトラブルに巻き込まれる可能性があります。
そのような点も考慮してから行動をするようにして下さい。
心霊スポットでの痴漢やもっと酷い事件もあるようです!最近は多様化も進んでいて男性でも安全とは言えません。安全確保のため、暗い場所には近づかない方が良いでしょう。
体験談・噂話
肝試しに行った女性の話
ある夏の夜の話です。私たちは岐阜県にある鶯谷トンネルで肝試しをすることにしました。
色々な噂は聞いていたのですが、実際に心霊現象が起きるなんて考えてはいませんでした。
入り口付近にある祠に「怖っ!」とか「雰囲気あるよね~」なんて軽口を叩きながら歩く私たち!
それまで蒸し暑く、五月蠅いくらいに虫の鳴き声が響いていたにもかかわらず、トンネルに足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が全身を包み込み、唐突にすべての音が消えました。
少し驚いた私たちでしたが、トンネルのなかだから涼しいのかな?と考える事にしたんです。
トンネルの中はひたすら静かで、ただ自分たちの足音だけが響いていました。しかし、進むにつれて、何かがおかしいことに気づき始めました。
そう、静かすぎるのです!
風が吹き抜けていくのにその音は全く聞こえませんし、トンネルに入るまで五月蠅いくらいに響いていた虫の鳴き声も聞こえてきません。
私が他のメンバーにそれを告げようと口を開いたときのことです。
どこからか、人の声のようなものが聞こえてきたのです。はじめはメンバーの誰かが何かを言っているのかと思いました。
しかし、それは最悪のかたちで裏切られました。私たちのグループは女ばかりの5人組です。
しかし、聞こえてくる声は確実に男性のものだったのです。それも壁や天井から響いて来ます。
「熱い…苦しい…」と言うものに加えて「ゔ、ゔ、ゔ」という唸り声のようなものも聞こえてきて、私たちはもうパニックでした。
気が付けば、誰からともなく、今来た方向に走り出していました。
息を切らせながら必死に走る私の目の前にトンネルの出口が見えてきました。もう少しでトンネルから出られると安堵し足の力を抜きかけた瞬間!
風の音に混じって、女性の鳴き声や笑い声のようなものが聞こえてきたのです。
私は絶叫を上げて、震える足に力を込めなおしてトンネルを走り抜けました。
トンネルを抜けても止まる気分にならず、トンネルが見えなくなるまで走り続けました。
他のメンバーも同じだったようで、誰一人止まりません。
結局、車を駐車していた所まで止まることなく走り続けて、車に到着するとすぐに車を運転してその場を離れました。
幸い、エンジンがかからないといった、定番のトラブルは起きませんでした。
ただ、車を運転していたC子は人が集まる場所が見えて来るまで落ち着かなかったようで、いつもの安全運転が噓のようにすごいスピードで車を走らせていました。
コンビニで車をとめたC子が、泣きそうな顔と声で「聞こえたよね?」とみんなに聞いてきます。
私たちは、お顔を見合わせて頷くことしかできませんでした。
結局、コンビニで食べ物と飲み物を購入して、完全に落ち着くまでその場にとどまりました。
その後、メンバーに不幸やトラブルは起こりませんでした。
しかし、私はあの夜のことは絶対に忘れないでしょう。
いまでも、ひとりになるとあの苦しそうな声が聞こえてくる気がして、背筋に冷たいものが走ります。
トンネルを利用する地元民の話
深夜、鶯谷トンネルを車で通過していたときのことです。
トンネルは静寂に包まれ、周囲は真っ暗で、ただ前方のライトだけが道を照らしていました。
その時、何となく背後に視線を感じたのです。
私は、古くから地元に住んでいるので、鶯谷トンネルに伝わる心霊現象の話は知っていました。
「まさかな」と思いながらも、不安に駆られながらもルームミラーを見てみることにしたんです。
瞬間、心臓が止まるかと思いました!
ミラーに映ったのは、後部座席に座る女性の顔でした。
彼女は怒りに満ちた表情で私を見つめています。心臓が止まるかと思うほどの恐怖を感じました。
しかし、勇気を振り絞って後部座席を振り返ると、そこには誰もいませんでした。
再びルームミラーを覗いても、そこには暗いトンネルが写るだけです。
その時見た女性の怒った顔、特に憎しみに満ちた、凄まじく鋭い目つきは忘れられません。
まるで彼女が私に何かを訴えかけ、私を非難しているかのようでした。
この体験後も私は、鶯谷トンネルを利用しています。
あの時以降、女性がミラーに映ることはありません。
いまでは、あの時のことが現実だったのか、疲れの余り見てしまった幻覚なのか判断も出来ません。
しかし、過去に戦争があり、この場所で悲しい出来事が起きた事実を忘れてはいけないと思うには、十分な体験でした。
亡くなった方達の魂に祈りを
まとめ
本記事では、岐阜県の『鶯谷トンネル』を紹介しました。
鶯谷トンネルの心霊スポットとしての名声は、その歴史と目撃談の蓄積によって真実味を増し、恐ろしい場所としての知名度を成立させています。
鶯谷トンネルの悲劇や噂される不可解な現象は、オカルト好きな人々の好奇心を刺激して、遊び半分や肝試し目的で現地を訪問する人たちを生み出していることは、間違いありません。
しかし、過去に日本で戦争が起きたことや、鶯谷トンネルで悲劇があったことは事実であり、忘れてはいけない事だと言えます。
鶯谷トンネルで命を落とした方達の魂を軽んじることなく、ご冥福を祈ると共に、戦争の悲惨さを後世に伝えていくことが我々には必要なのでしょう。