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大分県の心霊スポット「仏崎公園」別大線埋没事故の記憶が残る場所

大分市の海岸沿いに位置する「仏崎公園」は、かつて桜の名所として知られ、別府と大分を結ぶ景勝地として人々に親しまれていました。

しかし、この土地は1961年に発生した大規模な「がけ崩れ」により、多くの犠牲者が出た悲劇の舞台でもあります。

そのような背景から荒廃が進んだ仏崎公園は、やがて心霊スポットとして知られるようになりました。

不気味な静けさと悲劇的な歴史が交錯するこの場所は、訪れる人々に不思議な恐怖と畏敬の念を抱かせるのです。

本記事では、大分県の心霊スポットとして語られる「仏崎公園」の情報をご紹介します。

大分県の心霊スポット『仏崎公園』とは

仏崎公園は、大分市と別府市を結ぶ海沿いの幹線道路・国道10号(別大国道)が海に張り出す小岬「仏崎」に位置する景勝地です。

明治期の1875年に湾岸道路(当時の別大道路)が開通し、1885年には国道に指定されたことで交通の要衝となり、一帯は景勝地として注目を集めました。

公園に隣接する「仏崎遊園」は桜の名所として知られ、昭和初期には花見客で大いに賑わったと記録されています。

「仏崎」という地名は、別府湾に伝わる「瓜生島伝説」と結びつけて語られることがあります。

1596年(慶長元年)の大地震で海没したとされる瓜生島の寺院本尊がこの地へ漂着し祀られた、という説が紹介されており、その仏像は現在、大分市勢家町の瓜生山威徳寺に伝わるとされています。

この伝承は地名の由来を補強するものとしても引用されています。

観光地としての格式は、昭和5年(1930年)に別府周辺の三大景勝地「別府三勝」のひとつに選ばれたことにも表れています。

三勝は「仏崎」「志高湖」「内山渓谷」の三か所で、郊外の自然景観を代表させる狙いがありました。

しかし現在では「別府三勝」という呼称自体がほとんど使われず、仏崎や内山渓谷は観光地としての賑わいを失ったと整理されています。

現地には往時を偲ばせる痕跡が残っており、海に面した区画には「仏崎公園」の題字と漢詩を刻む石碑、複数の地蔵尊、1961年の事故を弔う慰霊碑が確認できます。

石段や参道跡とみられる構造物もあり、かつて整備公園として機能していた時代の面影を部分的にとどめています。

しかし、戦後の道路拡幅と自動車交通の増大により、仏崎は“通過空間”としての性格が強まり、観光地としての役割は次第に衰退していきました。

追い打ちをかけたのが、1961年(昭和36年)10月26日に発生した大規模ながけ崩れです。

このとき、大分交通「別大線」を走行していた電車が土砂に埋没し、乗客70名のうち死者31名・重軽傷者36名を出す大惨事となりました。

以後、崩落対策が強化されるとともに、犠牲者を弔う地蔵や慰霊碑が設けられ、仏崎の記憶は“歓楽の桜景”から“鎮魂”の地へと大きく転換しました。

現在の「仏崎公園」は行政的な公園機能を事実上失っており、石碑や地蔵、慰霊碑が静かに残るのみです。

近年の旅行記や現地調査では、かつて花見や展望の名所であった背景に触れるとともに、国道沿いの多い交通量、防護柵、急斜面といった物理的リスクが指摘され、訪問時には安全への配慮と慰霊・史跡への敬意が強く求められています。

『仏崎公園』で起こる心霊現象

「手招き地蔵」の噂

仏崎公園には、一体のお地蔵さまが安置されています。

このお地蔵さまは、通称「手招き地蔵」と呼ばれる不可解な存在です。

呼び名が広まったのは「別大線電車埋没事故」以降とされ、「雨の日になると、お地蔵さまの手が上向きから下へ垂れ下がる」という不気味な噂が伝わっています。

地元では「幽霊地蔵」とも呼ばれ、事故で命を落とした犠牲者たちの無念を想起させる現象として語られているようです。

幽霊の一団の目撃例がある

大分市から別府市へ向かう道(別大国道)の途中で、「崖の方に向かって一心に祈りを捧げる僧侶の一団を見た」という噂が囁かれています。

その数はおよそ30人。時刻は22時を過ぎ、周囲は真っ暗で、辺りを照らすのは行き交う車のライトだけだったそうです。

車のライトの光のなかに浮かび上がったのは、普段とは明らかに異なる異様な光景──祈りを続ける人影たちだったのです。

さらに、そのそばには2人の子どもの姿も見えたといいます。

そして、そこだけが妙に薄暗く、周囲とは異なる空気に包まれていたそうです。

1961年の事故で命を落とした人数は“31人”。祈る僧侶30人と、傍らの子ども2人──その数の符合が不思議な哀愁が漂います。

雨の日、崖に無数の手が張り付いている

仏崎公園では、雨が降る夜になると崖に無数の手が現れる──そんな噂が語られています。

事故現場となった崖をよく見ると、濡れた岩肌にいくつもの人間の手形が浮かび上がってくるのだといいます。

それは、這い上がろうとしたのか、助けを求めていたのか……。

目撃した者の心を凍りつかせる、異様な光景といえるでしょう。

夜間、崖の下から突然人影が飛び出してくる

仏崎公園周辺では、夜中に車で走行中、突然崖の下から人影が飛び出してくる──そんな体験談が複数語られています。

慌ててブレーキを踏み込むものの、そこには誰の姿もないといいます。

まるで「何か」が車に飛び込もうとしたかのように、忽然と現れては、同じように忽然と消えてしまうのです。

交通事故が繰り返し発生している

仏崎公園周辺では、交通事故が頻発しているといわれています。

いずれも突発的なハンドル操作の誤りに起因する、不自然な事故が相次いで報告されているのです。

原因は明らかになっていませんが、地元では「見えない誰かに引き寄せられているのではないか」と囁かれているといいます。

ウワサされる心霊現象

  • 手招き地蔵の噂がある
  • 幽霊の一団の目撃例がある
  • 雨の日、崖に無数の手が張り付いている
  • 夜間、崖の下から突然人影が飛び出してくる
  • 交通事故が繰り返し発生している

別大線電車埋没事故に関する心霊現象が多い印象です。

『仏崎公園』の場所

住所〒870-0100 大分県大分市八幡
最寄り駅JR日豊本線「西大分駅」
アクセスJR日豊本線「西大分駅」約3.2~3.9km、徒歩40~50分程度
JR大分駅→大分交通バス(別府方面行き)「田ノ浦」下車
備考海風も強い区間です。法面やフェンスを越えての接近、柵外歩行はしないこと。荒天・大雨後は訪問を控える判断を

私有地に無断で立ち入ると罪に問われます。絶対にやめましょう。

『仏崎公園』で過去に起きた事件・事故

別大線電車埋没事故

仏崎公園では、1961年(昭和36年)10月26日に「別大線電車埋没事故」が発生しました。

仏崎の崖が突然崩落し、大分交通の電車が土砂に呑み込まれてしまったのです。

この惨事によって、死者31名、重軽傷者36名という大規模な被害が発生しました。

現在も現地には犠牲者を慰霊する地蔵尊が祀られ、訪れる人々に当時の悲劇を静かに伝え続けています。

交通事故が多発している

仏崎公園の周辺では、交通事故が多発しているといわれています。

実際に、公園の前を通る国道でも数多くの事故が発生しており、その中には重大な事故へと発展するケースも少なくありません。

瓜生島伝説

九州豊後国(現大分県)にある別府湾が、豊後湾と呼ばれていた頃のお話。

豊後湾内には瓜生島うりゅうじまをはじめ大久光島、小久光島、東住吉島、松島をはじめ数々の島々があり、渡し舟を使って島伝いに大分と別府を繋ぐ道もあったと言われている。

島々の中でも、府内(現大分市)沖にある瓜生島が最も大きく、東は萩原沖、西は白木沖までの東西凡そ一里(約4km)南北に凡そ半里。洲浜のような場所で山や丘は無いが、海岸線に沿うようにある松林と海の青の対比が美しい島だった。

大友家が治めていた頃の府内は博多と共に九州における貿易の拠点として繁栄しており、海外からの船も多く遠くはからだけでなく南蛮からもやって来ていたそうで、瓜生島もその恩恵を受けて栄えていた。一つの町と十二の村々があり、家は千戸を超えていたという。

島の中心は沖の浜町と呼ばれ、島長しまおさである幸松さきまつ家の立派な屋敷を中心に本町、東町、新町と呼ぶ大通りが走っていた。この幸松家は代々信心深いことで知られ、そのおかげもあり島には威徳寺、阿含寺、住吉神社、えびす社(※1)他多くの寺社があった。当代の勝忠殿も同様であり、島の人々と共に朝に夕にと手を合わせていたという。

そんな島には言い伝えがあった。
「この島の者は、皆仲良うせねばならぬ。諍いを起こす者あらば、島中の神仏の怒りで島はたちまち海に沈むであろう」
そして、えびす社に奉納されている木彫りのえびす様の顔が赤くなるのがその顕れとも伝えられていた。
この言い伝えは島の各家で代々語り継がれ守られてきたため、喧嘩が始まりかけても「はよやめんか。えびす様の顔が赤くなるぞ」の一言で全て治まった。

ただどこにでも信心から縁遠い人も居るものだ。
甲引さからす村に住んでいた医者の加藤良斎はこの言い伝えを頭から馬鹿にして、
「これほど大きな島が神仏の祟りで沈むなど有り得ぬ事じゃ」
と、誰はばかることなく言い触れていた。

信心深い島の人たちにとっては気が気でない。
「そんなことばかり言ってると、とんでもない神罰があたるぞ」
と良斎を諫める者も居たが、馬の耳に念仏、暖簾に腕押し、糠に釘。
「何を言うておるか、そんな古臭い迷信を信じおって馬鹿者どもが。面白い、どんな神罰があるか見てやりたいものじゃの」
島の年寄りの諫めを鼻で笑い飛ばしていた。

とある日のことだった、良斎は面白いことを思いついき、夜を待ってえびす社へとこっそり出かけた。
そして木彫りのえびす様の顔を、懐にしのばせてきた紅殻べにがら(※2)で真っ赤に塗りたくり、何食わぬ顔で家に戻ってきた。

翌朝の島は大騒ぎとなった。
朝のお参りに行った近くに住む爺さまが、
「大ごとじゃあ! えびす様の顔が真っ赤になっとるぞぉ」
と島じゅうに知らせまわったからだ。

大事おおごとになってしまったのぉ。何も起きねばよいのだが…」
「島が沈む前に逃げ出さねばならぬ」
島民の中には家財道具をまとめる者も出始め、気の早いものは府内の知り合いの所へと駆け込んだ。

三日経ち、四日が過ぎたが、島には何事も起きなかった。
十日が過ぎても何事も無く、島も海は静かなままで、漸く島民たちは落ち着きを取り戻した。
それを見た良斎は、
「えびす様の顔を赤く塗ったは、わしじゃ。ためしてみたんじゃ。どうだ、ただの迷信じゃったろうが。島はなんともないぞ」
そう高笑いをし、
「どんな神罰が当たるか、見たかったもんじゃのう」
と逆に皆を煽り返し、胸を張った。

「このままで済めば良いのだがのぉ…」
そんな良斎を余所に島の人たちは、囁きあった。

それから三日後の慶長元年(1596年)六月、豊後国を中心に、時折地震が起きるようになった。
「神罰の前触れじゃ!」
と島民達の中には恐怖心を甦らす物も居た。

同年閏七月に入っても豊後国に地震は続き、島も日に四度、五度と揺れるようになった。
激しい揺れだけでなく、不気味な地鳴りも聞こえるようになると、
「ただ事じゃねぇ! 言い伝えは本当じゃった、こりゃあ神罰の前触れに違いねぇぞ」
皆で噂しあい、怯えながら暮らしていた。

そして、同月十二日未の刻(午後二時頃)を迎える。

ごごうごうごう、ごごうごう…、今の世にいう慶長豊後地震(※3)が発生した。
石垣は崩れ、家が潰れ、人々の悲鳴が島を覆いつくす。

「あれ見よ! 木綿ゆう山(由布山)や御宝山(鶴見岳)が火を噴いてるぞぉ」
「高崎山も崩れとる…」
空は赤く燃え盛り、焼けた大石まで音をたてて島にふりそそぎ、美しかった松林も多くが倒れた。
この世のものとも思えぬ光景に、島の人たちは難を逃れようと慌てふためいた。
そんな中、生き残っている島民たちは揺れの合間を縫って、荷物をまとめ、何とか逃げる支度を整え時期をうかがった。

申の刻(午後四時頃)になると地震や地鳴りも静まり、『もう大丈夫かもしれぬ』と人々は安堵の色を浮かべ夕餉や風呂の支度を始め、平穏無事になるかと思えた時に町中に声が響いた。
「島が沈むぞぅ。一刻もはよぅ逃げるのじゃ!」
白い馬に跨った老人が大声で触れ廻っている。
皆が神仏の使いだったにちがいないと思い、海へ舟へと我先に逃れていった。

泣き叫ぶ子供の手を引き、お腹を抱える女。
大きな荷物を背に立ち尽くす者。
足の弱った老人を励ます者。
再び阿鼻叫喚の世界となり、その中にあの良斎の姿も見られた。

そして酉の刻(午後六時頃)、再び激しい揺れが襲った。
砂州伝いに逃げる者、小船を必死に操る者。
何故だろうか、一瞬の間があった後、逃げ惑う人々の声を静けさが覆いつくした。

既に海の水は遠くへと引き、海底の岩が顔を出している。
やがて、激しいとどろを伴って、山のように盛り上がった津波が押し寄せたのだった。

一夜が明け、府内から見た豊後湾には夥しい材木が浮かんでいた。
すぐそこに見えていたはずだった瓜生島はじめとした美しい島々は、どこにも見あたらなかった。
島長の勝忠殿の船は転覆し波に飲まれるも、何とか息子を抱きしめていると、其処にあの白馬に跨っていた老人が現れ竹竿を差し出したという。必死の思いでその竹竿を掴んで息子共々助かったという。

島人のうち助かった者は七分の一ほどで、その中にあの良斎は含まれてはいなかった。
行き方知れずの者は数知れず、島民だけで死者は七百名を超えたという。

伝説と昔話を語り継ぐ~日本文化を後世に~

『仏崎公園』心霊スポット化の理由を考察

仏崎公園が心霊スポットとして語られる背景には、過去に発生した大事故が関係していることは間違いありません。

多数の死者を出した現場であるという事実は、地元住民だけでなく、多くの人々の記憶に深く刻まれた悲劇といえるでしょう。

この出来事は「無念を残した多くの魂が今も漂う場所」というイメージを定着させるきっかけとなりました。

さらに、公園自体が現在は廃れ、夜間は人影もなく薄暗い雰囲気を漂わせています。

荒廃した景観は人々の想像力を刺激し、噂や都市伝説を生み出す温床となってきました。

また、事故現場周辺は国道に面していて車の往来は激しいものの、人の気配は少なく寂しい環境です。

お地蔵さまが安置されている場所も国道沿いよりさらに薄暗く、孤立した印象を与えます。

こうした条件が重なった結果、仏崎公園とその周辺は「心霊スポット」として広まっていったと考えられます。

一方で、筆者が大分県在住の知人に尋ねたところ、「お地蔵さまの手が垂れ下がっているのを見たことはない」との証言も得られました。

お地蔵さまの噂は、瓜生島伝説になぞらえた話として膨らんだもので、実際には怪異的な現象は確認されていないようです。

また、この地域は一般道にしてはスピードが出やすく、カーブも多いため、不注意が大事故につながる危険があります。

行き交う車のライトと山影が作り出す光の錯覚によって、人影のように見えてしまうこともあるとされます。

このような点を踏まえると、仏崎公園は心霊現象よりもむしろ「交通事故への注意」が必要な場所であるといえるでしょう。

過去に別大国道を訪問した時は、みなさん普通に80㎞~100㎞で走っていましたから…。高速道路かって思ったものです。

『仏崎公園』訪問時の注意点

仏崎公園周辺は国道沿いで交通量が多く、交通事故が頻発しているエリアです。

別大国道は、多くの人が凄い速さで車を走らせているので、車で訪れる際には、特に運転に注意が必要です。

さらに、公園付近の道は街灯が少なく、夜間は足元が見えづらいため、躓きや転倒の危険があります。

散策の際は十分な注意を払いましょう。

また、現場周辺には少ないながらも、民家があります。夜間に大声で騒ぐと迷惑になるので絶対にやめましょう。

まとめ

本記事では、大分県で心霊スポットと呼ばれる「仏崎公園」の情報を紹介しました。

仏崎公園周辺は、1961年の大規模ながけ崩れ事故を契機に、多くの命が失われた悲劇の舞台となりました。

その後は、幽霊目撃談や不思議な噂が広まり、心霊スポットとしても知られるようになりました。

しかし、実際には心霊現象の発生は不確実で、噂されている心霊現象にも何らかの説明がつくケースがほとんどです。

別大国道では、80㎞~100㎞で車が走っていることが多く、思わぬ事故が起きる可能性があります。

現地を訪問する際には、信連現象よりも交通事故に注意しながら運転をした方が良いdしょう。

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